鴻朧館
游月山荘

有馬温泉 月光園便り

有馬温泉 月光園よりお得な情報をお伝えします。

【有馬温泉月光園便り】有馬温泉癒しの森散策〜魚屋道〜

 炭屋道を登りきると、少し傾斜が緩やかになった道がございます。この辺りは魚屋(トトヤ)道を呼ばれています。

 魚屋道は、江戸時代、有馬温泉に神戸(魚崎)の魚を運ぶために使われた道だそうです。明治時代には、剣道有馬住吉線として整備され、さらに明治7年大阪神戸間に鉄道が開通すると、住吉駅が有馬温泉の最寄り駅となり、徒歩・馬・駕籠による交通が盛んとなりました。有馬温泉のパイプラインとして長く役立っていた道です。

 当時は茶屋もあり、もうすぐ有馬というところでの一服もでき、期待に胸を膨らませていたのでしょうね。

 この道は六甲山の最高峰までも続いており、今もトトヤ道として、多くのハイカーに利用されています。

 写真は有馬温泉癒しの森として整備された休憩所です。

平成19年6月21日 有馬温泉月光園 門口

【有馬温泉月光園便り】有馬癒しの森散策〜炭屋道〜

 六甲有馬ロープウェー側より有馬温泉癒しの森に入っていくと一番最初にあたる区域が炭屋道と呼ばれる地域です。

 この炭屋道は、山中の魚屋道へと上がっていく道の為、かなり急な坂となっております。一番辛い区域かもしれません。

 炭屋道は昭和戦前ごろまで、多くの炭焼窯があった場所です。炭の材料となる木材は重い物が多いため、ここで焼いて軽くして運んだそうです。そのため今でも多くの石窯が残っております。炭焼きは良好な森を守るという点からも効果が見直されています。そして木を伐採しては植えるという作業を繰り返したため、株立ちの木が生えております。

 また撮影には失敗しましたが、この辺りにはシチダンカやヤマアジサイ、タムシバなどの植物も植えられ、登山客を楽しませてくれます。ところどころから見える山の景色が我々を癒してくれます。

 有馬にお越しの際にはぜひ、癒しの森もご堪能くださいませ。

 平成19年6月20日 有馬温泉月光園 門口

 

【有馬温泉月光園便り】地獄谷

今日は、有馬温泉の“地獄谷”についてのお話。

写真では見難いと思いますが、看板の内容は下記の通りです。

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       地獄谷

 射場山と愛宕山との間の谷を地獄谷と呼ん
でいます。
 ここは、数十万年前の地殻変動のときにで
きた射場山断層です。
 この谷には、鳥地獄・炭酸地獄・虫地獄な
どがあります。射場山断層の割れめから、た
くさんの炭酸ガスが噴き出て、虫や小鳥など
が死んだところに、この名の由来があります。
 また、この付近に湧き出ている炭酸水は、
かつてその成分がわからず、町民から「毒水」
として恐れられていましま。
 この毒水の湧き出ていた「血の池」という
炭酸泉に目をつけた三田城主の山崎家盛は、
慶長2年(1597年)に温泉場をつくろうと
しました。これに驚いた町民は、太閤さんに
直訴し、その工事をやめさせました。家盛は
激怒して、当地の住民を皆殺しにすると言っ
たという話が残っています。
 明治以降に、虫や小鳥などが死んだのが、
炭酸ガスのためであるとわかりました。それ
からは、炭酸泉の掘削が行われ、湧き出た炭

酸水は良質のおいしい飲料水として評判とな
りました。
 この地獄谷を訪れ、鼓ヶ滝を巡るコースは
古くから湯治客の散歩道として親しまれ、鎌
倉、室町時代の五山文学の詩集などにも登場
しています。

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と、言うように非常に身体に良いとされる炭酸泉も人々に理解されるまでにかなりの時間を要した事が伺えます。

今ではその名残は全く無く、「湯山稲荷大名神」を祀る鳥井と小さな社、そしてその脇の山中に「炭酸地獄」と書かれた古い石碑が有るのみです。

こちらは、有馬温泉の外周の山中に位置しており、中心街から離れておりますので、観光のお客様の目に触れる事も少ないと思います。
この近くには、「有馬稲荷神社」もありますのでお時間の有る方は一度ご覧になられてはいかがでしょうか。

現在では道路も舗装され、先ほども申し上げたとおり“地獄”という言葉が当てはまるような名残はございませんが、私が想像するのは、きちんとした道路も無く獣道程度の山中だったのだと思います。そのような中、沢山の鳥や虫が同じ場所で死んでいるのを発見したらそれは恐ろしい事であったと思います。“地獄”のように映ったとしても不思議ではないですね。

と、言うわけで歴史的な物をただ何気なく見るのではなく、いろいろと想像を膨らませてみるのも面白いのではないでしょうか。

平成19年6月7日(木)
有馬温泉月光園 幸坂

【有馬温泉月光園便り】日本発のサイダー

【有馬温泉月光園便り】日本発のサイダー”有馬サイダーてっぽう水”

温泉と炭酸せんべいで有名な有馬温泉ですが、実は有馬温泉は日本のサイダーの発祥の地とも言われております。

 日本で言うサイダーというのは、日本独特のもので、本来の意味はリンゴの果汁を発酵して作られた酒で、6%前後のアルコールを含む物をいうそうです。

 有馬には昔は人が立ち入らなかった場所がございます。町の南側に位置する射場山と愛宕山の谷あいに位置する位置する通称”地獄谷”と呼ばれる場所で、射場山断層の割れ目から炭酸ガスが噴出し、その影響で岩石が白くなり、洞穴にはプクプクと奇怪な音を立てたお湯が沸いていたようです。その洞穴に鳥や虫が入ると、二酸化炭素中毒を起こして死んでしまうことから、有馬の住人はその場所を”鳥地獄””虫地獄”と呼び、そこに沸いている湯を”毒水”と称して、恐れていたそうです。

 明治6年に内務省司薬場の検査により、この毒水が良質の二酸化炭素冷鉱泉だということが分かりました。

 有馬温泉には赤湯と呼ばれる含鉄強食塩泉があり、これを金泉と呼んでおります。一方、毒水が二酸化炭素冷鉱泉で通称銀泉と呼ばれるものです。この銀泉が見つかったことにより温泉ばかりでなく、土産物まで使われることになりました。

 この銀泉を使ったお土産で一番有名なものが”炭酸せんべい”ですが、同時期に、炭酸泉を使って日本初のサイダーが有馬で生まれました。そもそもサイダーは外国からの飲料ですが、これを模して日本オリジナルのサイダーが有馬の地で造られたのです。

 明治34年、居駒吉らが発起人となって「有馬鉱泉株式会社」が設立され、ガス入りのミネラルウォーターを外国へと輸出しておりました。炭酸泉源の傍に瓶詰工場を造り、温泉を使って「炭酸鉄砲水」なる清涼飲料水を製造していました。その数年間2000〜3000箱と言われております。

 市場の評判も良かったこの会社が国内向けに生産した期待の新製品が”有馬サイダー”です。「有馬鉱泉」で造られていたガス入りのミネラルウォーターに香料や甘味を加えると美味しい飲料となります。これをサイダーとして発売したのです。この有馬サイダーの発売につづいて各地で近代産業の象徴としてサイダーが作られます。「帝国鉱泉」はサイダーの元を輸入して三ツ矢印の「平野シャンペンサイダー」を造り、これが現在の三ツ矢サイダーのルーツだそうです。続いて「シトロン」というレモン系の炭酸飲料まで登場し、爆発的にヒットしたようです。

 このような動きから、1944年には他の鉱泉会社に対抗しようと、機械を購入し、大量生産を目指します。大正2年には大砲のデザインが入った角型のサイダーを発売。以後も多くの種類のサイダーを発売しています。しかし時代の流れには勝てないようで、大正13年に「金泉飲料」に買収され、翌年には「日本麦酒鉱泉」に再度買収され、川西市の平野に工場が移され、有馬でのサイダー製造が終わってしまったそうです。

 2002年秋にこの有馬サイダーが復活しました。昔ながらの味を出すために飲むと思わずゲップが出るくらい炭酸をきつくしてあります。そして昔のイメージを残す為「有馬八助商店」という合資会社を設立し、昔のトレードマークであった鉄砲を模したラベルを起用し、「有馬サイダーてっぽう水」として有馬町内で販売したのです。全国から40年前の古いビンを取り寄せてラベルを貼っておりますので、レトロ感があふれたサイダーとなり、瞬く間に有馬の名物となりました。

 この有馬サイダーは月光園游月山荘、鴻朧館両館の売店で販売しております。お値段は1本250円となっております。有馬温泉にお越しの際には炭酸せんべいを合わせて是非お試しくださいませ。

 平成19年5月20日 有馬温泉月光園 門口

【有馬温泉月光園便り】秀吉と有馬温泉

 有馬温泉と太閤秀吉との関係はあまりにも有名ですが、豊臣秀吉の時代は有馬温泉の歴史の中では、かなり新しいものとなります。震災以前から「有馬には太閤さんの湯殿がある」と言われておりましたが、震災の復旧の際にその湯殿跡が見つかり、現在は太閤の湯殿館として営業されております。

 仁西の有馬温泉復興以後、泰安の日々が続き、室町時代から鎌倉時代の戦国時代に入っても、有馬温泉に入湯に来られる人は減らず、世の中の混乱も有馬の繁栄にはたいした影響はなかったとされています。

 仁西の有馬温泉復興から3百余年、平和だった有馬に動乱の期がやってきます。1528年に大火事があり、有馬は焦土となります。また1545年には善福寺後方の落葉山に城を構えていた三好宗三政長に、三木城主別所豊後守が攻め入りました。そのときの余波を受けて大打撃を受けてしまいます。そして1576年の大火事と復興する間もなく壊滅的なダメージを被りました。

 一方明智光秀を打ち破り、天下統一の地固めにもひと段落ついたころに、豊臣秀吉が有馬を訪れます。秀吉は長く続いた戦で疲れた心身を天下に名高い有馬の名湯で癒したとされています。これが歴史に残っている秀吉入湯の最初です。その後も秀吉は再三にわたって有馬を音連れ、復興に手を貸したとされています。1597年に大規模な改修工事が始まりましたが、惟男の直接的なきっかけは前年に近畿一円を襲った慶長伏見地震だとされています。建物の甚大な被害もそうですが、更なる問題はこの地震の影響で、有馬の湯が熱湯になってしまったということです。湯治効果を良く知っていた秀吉は英断をふるって有馬温泉の改修工事に取り組みます。

 秀吉の改修工事より350年間、有馬町は一度も泉源の改修工事を行っておらず、このときの秀吉の改修工事が後の有馬の繁栄の基礎になっていることが分かります。

 秀吉は地震の時に新しくできた温泉に湯山御殿を造り、工事が完成した1598年に入湯する予定でしたが、悪天候の為中止となります。その後間もなく病で床に伏し、この成果を見ることはなかったようです。

平成19年5月16日 有馬温泉月光園 門口