鴻朧館
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有馬温泉 月光園便り

有馬温泉 月光園よりお得な情報をお伝えします。

【有馬温泉月光園便り】有馬の歴史 ”仁西と有馬温泉”

有馬温泉は、平安時代に六甲の山津波によって、一時さびれてしまいます。鎌倉時代になると、大和国(現在の奈良県)の僧である仁西によって復興されました。

 仁西は薬師如来を諸語する十二神将にちなんで12の坊を建設して有馬温泉を復興させます。この「坊」というのは本来は僧の宿舎のことを言うようです。有馬温泉には「○○坊」と旅館名が多くなっておりますが、これは室町時代中期に仁西の12坊にちなんで、一般の温泉宿に坊の名が採用されるようになっただけということです。寺院との直接の関係はないようです。

 先日ご紹介した行基、今日ご紹介しております仁西の二人の僧のおかげで、有馬温泉は一層有名になり、白河法皇、後白河法皇、藤原道長、藤原定家、豊臣秀吉、千利休、徳川秀忠など、多くの方々が湯治に訪れるようになり、和歌や散文の舞台にも登場するようになりました。

平成19年5月15日  有馬温泉月光園 門口

【有馬温泉月光園便り】有馬温泉の歴史”行基上人と有馬温泉”

 舒明天皇と孝徳天皇の行幸で有名になった有馬温泉ですが、その後徐々に衰退に向かったようです。これを復興し、現在の有馬温泉の基礎を築いたのが名僧行基上人と言われております。

 行基上人は聖武天皇の信任があつく、主に池と作ったり、溝を掘ったり、橋を架け、お堂を築くことに力を注いだ高僧です。

 行基が大池を掘っていたときに出会った人に、「私は体の中に悪い腫れ物ができ、数年来苦しんでおります。聞いた話ですが、有馬の山の中には温泉があり、病気にたいそう効くそうです。どうか私をそこへ連れて行ってくれませんか。」と懇願されたそうです。哀れに感じた行基上人はその人の願いを叶えるために、有馬に連れて行くことになります。有馬に行く道中、様々な人の願いを叶えてやると、その人は不思議なことに金色輝く御仏の姿となり、有馬温泉を復興するようにと言って雲に乗ってはるかかなたへと飛び去ったという伝説が残っております。

行基は感嘆し、如法経を書写して泉底に埋め、等身大の薬師如来像を作り、お堂を建てて納めたといわれております。これは薬師如来が温泉を復興させ、行基上人に有馬温泉発展の基礎を築かせたとされており、行基上人がここにお堂を立てて以来、約370年間有馬は、国のような賑わいを見せたと伝えられております。

平安時代に入って、各種の文献にも散見されるようになり、多くの文人や天皇、また重臣達が有馬を訪れるようになりました。清少納言も訪れたようで、枕草子のなかで有馬の湯を書いております。つまりこの当時から有馬温泉は天下三大名湯として高い評価を受けていたということが分かります。

平成19年5月14日 有馬温泉月光園 門口

【有馬温泉月光園便り】有馬温泉の昔話”有馬の三羽烏”

 有馬温泉の歴史は神代のころまで遡ります。今日は有馬の歴史に少しだけ触れて見たいと思っいます。

 はるか昔神代のころ、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)という2神が有馬に降臨されました。そのとき、傷ついた3羽のカラスが水溜りで水浴びをしていたのですが、数日でそのカラスの傷が治ってしまいました。不思議に思って二神がその水溜りを調べたところ、その水溜りは非常に効能の高い温泉だったと言い伝えられております。このお話がありまでは非常に有名な”有馬の三羽烏”です。

 そのため温泉の在り処を教えてくれたこのカラスだけが有馬に住むことを許されたといわれております。また理由は不明ですが、有馬はカラスが非常に少ない地域とも言われております。

 この三羽のカラスと二神は有馬の守護神と崇められ、湯泉神社に祀られております。

 また有馬温泉が世間に知れ渡るようになったのは、第34代舒明天皇(593〜641年)、第36代孝徳天皇(596〜654年)のころで、有馬への行幸がきっかけになったようです。631年9月19日から12月13日までの86日間舒明天皇が有馬温泉に立ち寄り入浴を楽しんだという記述が日本書紀あるそうです。

 そして孝徳天皇も同じく有馬の湯を愛され、大化の改新から2年後の647年10月11日から82日間、様々な部下をお連れになって、滞在されたようです。この時にめでたく皇子を授かったことから、有馬温泉の特産品”有馬人形筆”ができたといわれております。

平成19年5月12日 有馬温泉月光園 門口

【有馬温泉月光園便り】昔は国鉄も有馬を走っていた!?

 今日で4月も終わりですね。最近時があっという間に過ぎていくような気がしております。

さて、少し有馬の歴史について調べてみました。昔は『国鉄有馬線』というものがあったようです。

 大正2年に計画が発足し、有馬鉄道株式会社が設立される。
実際に鉄道が走り出したのは大正4年。
その後、昭和18年までの約30年の間運行されていたようです。

ルート:有馬⇔有馬口⇔新道場⇔塩田⇔三田
運 賃 29銭

運行本数: 6〜7往復

     所用時間 上り(三田方面)約37分、下り(有馬方面)約40分

完成後は鉄道省(運輸省)に線路を貸し、有馬鉄道は「線路」、「駅舎」等の施設の所有だけを行い、「蒸気機関車」や「客車」、「貨車」は鉄道省が運営していたようです。
大正8年に政府管理下となり名前も『有馬線』となる。
しかし太平洋戦争が激しさを増したこともあり、昭和18年6月30日には休業。
有馬線の設備(線路や鉄橋)は軍事目的のため篠山線建設のため転用されました。

 国鉄有馬駅があった場所は乙倉橋を渡ったところになるのですが、現在その場所は先山クリニックという病院になっていて、当時の面影はありません。
乙倉橋の下には有馬川が流れており、癒される景色となっております。
私もたまに乙倉橋に立って、川を眺めております。
 乙倉橋は神戸電鉄有馬温泉駅よりももっと下の方(西宮寄り)にあります。
当時は温泉地まで人力車などで運んだのでしょう。
その方が温泉街という風情はあるのでしょうが、大変不便だったように思われます。
現在はループバスが運行しており、たった5〜6分で温泉街まで到着してしまいます。
良い事か、悪い事か、有馬温泉までの道路や、交通手段など、十数年前に比べ格段に便利になりました。

という事で、今日は少しだけ有馬温泉の歴史に触れてみました。

平成19年4月30日 有馬温泉月光園 門口

【有馬温泉月光園便り】有馬町泉源めぐり”炭酸泉源”


 有馬町は温泉街というだけあって、いくつもの泉源がございます。その中でもちょっと変わった泉源、炭酸泉源をご紹介いたします。

 阪急バスの有馬温泉停留所横の坂を上って行くと、赤いポストがございます。その交差点を右に曲がっていくと、極楽泉源がございます。極楽泉源から左手の坂道、通称タンサン坂を上っていくと、キレイに整備された炭酸泉源公園に到着します。

 神社のような建物の中央の丸い石からこんこんと冷たい炭酸水が湧出していますが、飲む時は左手の飲料場を使用することになっています。ピリッとした炭酸独特の味がします。

 明治8年に内務省司薬場が大阪にできたのを機に検査をして、飲料水としても優れていることがわかるまでは、「鳥類、虫、けだものがこの水を飲めば、たちまち死んでしまう」と言い伝えられ、毒水としてだれも近づかなったようです。

 その後、阪神淡路大震災で崩壊するまで、炭酸泉源の井戸の横に小さな茶店があり、砂糖を溶かした炭酸泉を飲ませていました。有馬名物炭酸せんべいと有馬サイダーも、この炭酸泉を利用して作っておりました。

この泉の水を瓶にいれて蓋をするとすぐに蓋が飛んでしまい、まるで鉄砲のようであるということから「鉄砲水」とも呼ばれています。
地獄谷の虫地獄、鳥地獄はこの泉脈の炭酸孔の小規模なものだと考えられています。

泉質:単純二酸化炭素低温泉

温度:18.6℃

平成19年4月28日 有馬温泉 月光園 門口